毎年9月11日に頭に浮かぶこと


9月11日

私にとって特別で重要な日。
1人静かに、これまでの★年間を振り返ろうと思う。
47才で告知された2012年「次の五輪は無い」と思ったが、運良く見られた。
トリプルネガティブ乳癌が術後1年で再発、よくここまで生き延びていられるな。


2012年9月11日、トリプルネガティブ乳癌の最初の手術(別窓)を受けた。
緊張感で前夜から多弁気味だった。
その時は★年後にこうして生きているとは1ミリも考えてなかった。
「全身麻酔から目覚めたら切り取ったブツを見せて」と執刀医兼主治医に依頼してあった。
呼名に気付いて開眼したら、
私の右側でトレイにのせたブツを主治医が持って立っていた。
私はブツを睨みつけて閉眼した。

いつの間にか病室で酸素マスクをしていた。
午後からの予定が早くなったのも記憶に新しい。
超・早期離床を促され、帰室後5~~6時間で介助付きトイレ歩行し、
バルン(尿の管のこと)を自分で抜いた。
夜には主治医がBed-sideに来て
「センチネルリンパ節生検が陽性だったから郭清しといた」と告げた。
鎮痛剤の点滴をナースに指示しておいた…とのことで、翌朝までに2回くらい使ったかな。
初日はとにかく、身の置き所がない感じで過ぎた。

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自分の中では、自分が悲劇の主人公…というのは、もはやデフォ。
転落を絵に描いたような人生だが、
不思議と「こうすれば良かった」的な思いは出てこない。
初期のうちに、
身動き出来なくなった時に意思表示が通るような環境整備をした事は正解だった。



2013年の同日(つまり術後1年)は脳転移疑惑(別窓)の真っ最中であり、
その後に「まさかの展開」で再発が判明(別窓)し、抗癌剤点滴治療等の治療を受けた。
2014年9月11日(つまり術後2年)は、急激な左肘痛から発症した左化膿性肘関節炎のOPを、午前1時過ぎから受けた。
2015年9月11日は主治医の診察を受けた。


トリプルネガティブ乳癌の最初の手術から丸★年となる毎年9月11日、
先ほども書いたが生きている限りは1人静かに、これまでの★年間を振り返ることにしている。
乳癌になり、様々なことに驚愕し、凹んで、
1度は「これより下は無いだろう」と思ったが、それより「下」が存在した。
それは再発。

現状から考える「更に下」は再発を繰り返すか、多臓器への同時転移である。
勘弁してもらいたいとは思うけれど、
トリプルネガティブ乳癌が術後1年という早期に再発したことを考えると、意外と早く私に近付くかも知れない。
しかし、それは今考えてもどうしようもない…というのも分かっている。

明石家さんま氏のように「生きてるだけで丸もうけ」とは悟れないが、
2本足で歩けるうちに色々な所に行きまくる、
意思表示が可能なうちはあらゆる方法(言語、文字、
自分の意思を正しく伝達してくれる人を周囲に置いておく等)を使って意思表示するのが、
私の闘病生活の生命線だ。


苦痛なことは嫌だし、可能な限り避けるための努力や意思表示はする。
最終的に「何とかなるように、神様に助けてもらうしかない」と思うのだ。
自分の身体のことなのに、自分の意志が反映しないのは嫌だけど仕方ない。
毎日「神様、ヘルプ!」と祈り続けるしかない。

どのような時期(病期)でも、
悪性疾患と闘うには、そして、しんどい治療や苦痛なことに耐えるには、
対価的なものが必要だという考えは発病当初から変わらない。
それは、現金、時間、安心・安堵…等、TPOによって変化する。
これからどんな試練や展開になるのか…恐らく、主治医にも分からない。

結局、患者として出来るのは、
心身共に最良の状態をキープして治療や療養に臨むことだと考えている。
毎日好きな事しやがってと思う人は放置。
2本足で歩けるうちに色々な所に行きまくる、
自分が楽しいと思うことだけを追求してNK細胞を増やす…という方針。
術後1年で再発した私のトリプルネガティブ乳癌、
定年までは生きられないだろうから、生き延びている間は「ちょっと早めの定年後」だと考えている。


ここまでの文章は2018年9月11日に記載。
加筆・訂正をした場合は、ここから下に追記します。


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